2011/11/30旅が終わった後の充足感とはまたちがって、いくつかの物語は、読み終わったとたん色を失う。ここ数日、夕方になると糸が切れたように疲れてしまって、気づけば眠っていることが多い。 今日は3時に目が覚めて、昨夜できなかった食材の処理とご飯の用意。 見てしまわないといけない映画を流しながら、出かける用意をはじめる。 興味本位で借りたルー・サロメの出来が思った以上によくてすこし戸惑う。 |
2011/11/27どんなに好きでも、一方通行ならいつかはその感情も熱を失う。仕方ない。 もしも叶うのなら、ぐしょぐしょに濡れてところどころ弱くなって薄くなって破れてしまいたい。 |
2011/11/26もしかすると私は、読書が好きでもないし得意でもないかもしれない。ただ、私の中にはいくつかの物語と台詞と情景がのこっていて、それらが私を私たらしめているように思うし、自分の中に存在するそれらに支えられて生きているとは思う。 なのでもっと本を読まなくちゃいけないと思っているのだけれど、なかなか手が伸びない。 伸ばして、読んで、こころに蓄積されていくそれら。 何年も繰り返し読んだ物語の重さも、たった一度きり読んだ物語の重さも、たぶん等しい。 受け止める私が私である限り、それはおそらく等しい。 |
2011/11/24今日は寺町のパラ・ルシルセさんで渡邉秋良さんの個展「君と僕とのシンパシー」を見てきました。ありふれた事務用のペン(なんて言ってしまってもいいのかしら。ぺんてるです)で丁寧に描き連ねられたモチーフが集合してひとつの生命体になる。それに相反するように渡邉さんのこころに住んでいるというキラコの腕や指、躯の輪郭はなまめかしい。 ブロッコリーなどの緑色野菜の健康さと、宇宙人的なピカピカした幾何学的な配列と、性に未熟な少年少女のすっぱいにおい。 販売されていた葉書の紙質もよくて、作家さんの細部へのこだわりも好み。 展覧会は11月28日まで。 |
2011/11/21一日一章ときめて読んでいる川上未映子『すべて真夜中の恋人たち』、主人公の冬子が日ごとにアル中めいてきているのを自分に重ね合わせてちょっぴり反省しているのですが、今日は99ページ目で少しドキッとすることがあって本を閉じてしまいました。冬子が口にしたコーヒーが「ぬる」かったというなんてことない一文だったのですけれどもね、喫茶店でぽつりぽつりと仕事について自分の性分などもあわせて人に説明した後でね、そのコーヒーがぬるかったっていう。 熱いものでもなく冷えてしまったものでもない、「ぬるさ」というのは、こわい。 夜、ひさしぶりに友人から電話。 何事かと思いきや「先週ツイッターに死にたいって書いてたけど何かあった?」って、そんなこと書いたっけ? 日ごろから、お互い悩んでいる間はあーでもないこーでもないとぐずぐず相談しあうのですが、自分の中で決めてしまうとなにも言わなくなっちゃうので「きっと何か決意したんだろうなって思っていたよ」ってさ。ありがとう。 にしても、一週間前にかいたことすら忘れてるのね、わたし。 |
2011/11/19中京の町家に住みたい。理想は烏丸御池の交差点より、北西。 わたしの知っている限り、町家の柱は時とともに徐々に傾きだす。 傾いた柱が窓と窓枠に空間をつくる。 ただでさえ底冷えする京都の冬、部屋に隙間風が入ってきた日には自分の生活を呪いそう。でも、それでもいいから町家に住みたい。 誰かが「京都に観光行くよ」って連絡くれるたびに、「じゃあうちにおいでよ♥」って言うの。 「寝巻もタオルもぜーんぶ用意するから、からだ一つで遊びにおいで」って言いたいの。 ぴかぴかに磨いた床、拭き清めた畳、坪庭の苔にはじょうろでたっぷり水をあげる。 入口にはへたな花を生けて、やってくる10分前になれば表に打ち水。 料理は上手じゃないからどこかから調達してきて、ゲストが気を遣ってお土産にくれたお酒をだす。 たいした器も用意できないけれど、すこしだけ古いものを出してわいわいするの。 春や秋は思いっきり外にでかけるけれど、夏だったら日中はお家にいて日が暮れてから鴨川へ散歩にでかける。 祇園祭の宵山は歩いてすぐだから、夜中まであちらこちら見て回ろう。 冬はゆっくりおうちにいるのもいいよね。 石油や電気の暖房器具ももちろん使うけれど、火鉢に炭を入れて鉄瓶でお湯を沸かす。 炭がまっかに燃えているのを見ながらとりとめのない話をする、誰かの京都のおうちになりたい。 |